保育のカタチは人それぞれ

いろんな子ども

どんな子になって欲しいですか?

皆さんは、自分のお子さんをどういう子に育てたいですか?

「将来苦労しないように勉強してほしいから、落ち着きのある子に」
「いっぱい遊べる元気な子に」
「弱肉強食。とにかく強くなれ」
「女の子にはやさしく」
「人に迷惑をかけない子に」

などなど。

眠る子ども

子どもを思う親心…でも、各家庭ごとに様々ですね。

さて、これらは全て「間違い」とは言えない親の願いだと思います。
色々な考え方があれど、「間違い」とは言えないはずです。

では、こちらはどうでしょう。

「自分が損をしないように、何でも一番になれる子」

 

間違った教育って?

ビー玉

「何でも一番になれる子」
ということは、別の角度から見てみれば
「人を蹴落としても這い上がれる子」
という見方ができます。

こう言われると
多くの方が、疑問を持つでしょう。
「他人を踏み台にするのってどうなんだろう」
「親の期待に押しつぶされてしまいそう」
なんて声が聞こえてきそうです。

さて、ではこの考え方は「間違い」なのでしょうか?

私ならこう答えます。
「いいえ。間違いではありません。」

保護者の意向に沿って、無理しているわけではありません。
心から「間違い」ではない、と断言します。

 

良識、常識について

こども

少しスケールの大きな話をしますが、
多くの人は、家庭で育ちます。
その親もまた、家庭で。そのまた親も。
人生の基盤は、始まった時から多くの人はその一家庭です。
幼稚園でも、保育園でも、学校でもありません。

家庭は、当たり前ですが、子に対して親の願いや生き方が色濃く反映されます。

例えそれが、常識的に間違っていても。

ある人から見た非常識が、
ある家庭の常識である。

ということを、保育の仕事をしていなくても
皆さん多少なり経験されたことがあると思います。

皆さんが感じる常識は、他人の非常識かもしれません。
常識の範疇、とよく言いますが
そんなものは、あってないようなものなのです。
残念ながら。

と、ここまでスケールの大きな話になりましたが
要するに、

「自分が損をしないように、何でも一番になれる子」になって欲しい
という一見危うく見える考え方を「間違い」だと決めつけることができる人は、
一人も居ないということなのです。

 

「正しい」保育、教育のカタチ

ハート

いままでお話ししてきたことから、
じゃあ、「正しい」教育って?と聞かれれば

「そんなもんはない」

と答える他ありません。

でも、、でもね
私の個人的な願いとしてはやっぱり
「他人の気持ちを理解できる、優しい子」
に育って欲しかったりします。

「常識的」「良識的」「倫理的」に。

「要するに、犯罪しなきゃいいんでしょ!」
っていう乱暴な保育や子育てはしたくないし、
多くの保護者がそう願っていると私も思います。

じゃあ何故こんなに大袈裟な話を?
というところですが、
それは皆さんに考えて頂きたいことがあるからなのです。

 

※詳しくは、保育園のやり方は理想の楽園について詳しく書きました。

保育園のやり方は理想の楽園?